ハワイの日系人の歴史とパールハーバー(ハワイ真珠湾攻撃)そして、その翌日のハワイ日本語新聞「ハワイ報知」の新聞記事『之ぞ我等の 戦ひ』

ハワイで唯一の日本語日刊新聞「ハワイ報知」とは

1941年12月7日、日本海軍のハワイ真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発した。1912年に設立された日本語新聞「ハワイ報知」の創設者の牧野金三郎は開戦翌日には「之ぞ我等の 戦ひ」と題する社説を一面トップに掲げ、「平静を保ち、 当局の指示に従い、協力するように」と呼びかけた。

本日のハワイ大好きマガジンのインタビューゲストは、ハワイ報知社の代表取締役社長を務める吉田 太郎さんにお話を聞いていきたいと思います。

ハワイ真珠湾攻撃のときにハワイ報知の牧野金三郎さんが起こした行動とハワイ報知新聞の社説に書いた内容とは。

覚田 )

僕はマーケティングとコンピューターの仕事をしてきたので、アメリカのAppleやGoogle が好きですし、元々コンピューターなどのサイエンスはアメリカからどんどん入ってきて、マーケティング用語なども全部アメリカから来ています。ハリウッド映画とかも好きなので、ぼくはアメリカのことが大好きです。

ところが日本人はジャップだとか言われてきて、そして「リメンバーパールハーバー」という言葉を聞くと、日本人としてとても辛い気持ちになるので、僕はハワイが苦手な場所でした。日本人が悪いことをしたという場所のイメージが強くて、なるべく行きたくないと思っていました。だから僕はサンフランシスコとかニューヨークとかは好きだけれどハワイにはあまり行かなかった。そこに住んでいる人たちが日本人を見ると嫌な思いをするのではないかと思っていました。

しかし、実はある方からパールハーバーはそんな所ではないということを聞きました。そして、吉田さんと初めてお会いした時に聞いたパールハーバーの話で感動しました。しかし、僕の一番の疑問はリメンバーパールハーバーと言っている人たちというのは、日本人は告知もなく突然奇襲をして、沢山のアメリカ人を殺害した。だからそのことを忘れるな、と言っているのですよね?


吉田さん)

確かに宣戦布告もしないで攻撃を仕掛けたのは日本ですし、約2300人の死者も出しましたので、反省しなければいけないことであると思います。ハワイ真珠湾攻撃の後には日本人は敵性外国人として扱われ、様々な迫害を受けることになります。

150年ある日系人の歴史の中でハワイ真珠湾攻撃は最大の出来事だと思います。


覚田 )

敵性外国人とはなんですか?


吉田さん)

ハワイ真珠湾攻撃を先に仕掛けてきたのは日本ですから、当時、アメリカに住んでいた日本人はアメリカに敵対している外国人として扱われました。領事館などの政府関係者や神社の神主さんやお寺のお坊さん、メディア関係者、県人会などの日系団体の代表者たちが約1,500人逮捕、抑留されました。先ほどメディア関係者が逮捕されたと言いましたが、ハワイ報知の社員は一人として逮捕されませんでした。

なぜならば、ハワイ報知は日本政府と距離を置いていて、領事館、軍関係、県人会などの会合などに一切参加していなかったため、ハワイ報知は政治的な関係が薄いと判断され、社長の牧野金三郎氏以下、社員は誰一人とも逮捕されませんでした。


覚田 )

牧野金三郎さんや日本人たちが、一生懸命ハワイで住みやすい場所にしようにしているにもかかわらず、突然日本がハワイに奇襲してきましたが、その時のハワイにいた日本人は攻撃されることは知らなかった訳ですよね?


吉田さん)

当時、日本とアメリカの関係は悪化しており、戦争が起こるかもしれないという認識はあったと思いますが、まさか奇襲攻撃を仕掛けてくるとは思っていなかったと思います。


覚田 )

牧野さんはどんな気持ちだったのでしょうか・・・


<解説:牧野金三郎>

牧野金三郎:牧野フレッド金三郎、1877年8月28日横浜に生まれ、21歳の1899年4月10日ホノルル到着。「牧野薬店」とその二階に「牧野法律事務所」を開設した。当時は日本人の法律家はいなく、日本人移民の出入国問題や、離婚などの交渉、調停などを行っていた。1912年、「ハワイ報知」を創刊した。

吉田さん)

ハワイ真珠湾攻撃の時、祖国である日本が攻めてきたことにより、日系社会は大ショックを受けました。12月7日の朝に攻撃を受けましたが、直後から大騒ぎで、牧野金三郎さんの自宅まで行って「我々はこれからどうしたらいいのか? 」と聞きに来る日本人も沢山いたそうです。これを受けて牧野さんは真珠湾攻撃翌日の1941年12月8日にハワイ報知の一面トップに社説を書きました。


覚田 )

社説というのは、新聞社としてその会社としての考え方を載せて伝えるというものですね。


吉田さん)

その通りです。社説の中で牧野さんは、我々の住んでいるハワイに祖国である日本が攻めてきた状況にあるが、我々はハワイの住人なのだからアメリカに忠誠を尽くさなければならない。疑いをかけられるような行動をとらなければ、何の咎めも受けることはないから、パニックを起こさず平静を保ち、アメリカに忠誠を尽くしましょうと社説に書きました。結果として、その記事が読まれたことにより大混乱を防いだのです。

これがその当時の新聞です。過去の新聞は電子化されてPDFで保存されています。2016年の真珠湾戦争75周年の時に、再印刷して購読者の皆さんに配布したものです。



覚田 )

すごいですね!身震いしました。

この新聞に死者報告が載っていますね。1番最初が10歳から始まっている・・・
どんな気持ちだったのでしょうか・・・



ハワイ報知「報告された死傷者」の一部拡大


吉田さん)

その後太平洋戦争が開戦し、第二次世界大戦が始まりますが、1943年日系人による兵士部隊が編成させられることが決まります。そこで、アメリカで生まれ育った日系二世の方達は自らがアメリカに忠誠を尽くす姿勢を見せようと決意し、自ら入隊を志願する人が多くいました。

日系人部隊の募集人員は1,500人だったのですが、その6倍近い約9,000人が志願兵として集まりました。そして、3,400人の日系人兵士の部隊ができます。それが第442連隊戦闘団です。


<解説:第442連隊戦闘団>

第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team):第二次世界大戦中のアメリカ陸軍の連隊規模の部隊である。ほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成されていた。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示している。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られる。

第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。

<ウィキペディア>

吉田さん)

442部隊は最も過酷な戦いを強いられている、ヨーロッパ戦線に送りこまれます。442部隊の隊員達は、両親に不名誉な思いをさせたくない、家族が自分たちのことを恥ずかしいと思わせないようにしなければならない、そして自分たちがアメリカ人として、アメリカに忠誠を抱いているということを命を張って証明しなければならないと考えて戦いました。その結果、終戦後に442部隊はアメリカ軍事史上最も多くの勲章を受けた部隊となり、アメリカ軍史上最強の陸軍と呼ばれました。

残念ながら多くの犠牲者を出しましたけれども、終戦後の1946年当時の大統領トゥルーマンより「諸君は敵のみならず、偏見とも戦い勝利した」と442部隊のことを讃えました。その442部隊の中の一人にダニエル・イノウエさんがいらっしやいました。


日系人のヒーロー、ダニエル・イノウエさんの功績を語り継ぎ、ハワイと日本の架け橋として活動していきたい


覚田 )

ダニエル・イノウエさんというと、3年ほど前にホノルル空港の名前がダニエル・イノウエ国際空港に変わりましたが、以前、ホノルルに降りたった時にイノウエ空港と聞こえたので、僕は間違えて飛行機に乗って違う空港に着いてしまったと思ったくらいです。このダニエル・イノウエさんという方が第442連隊戦闘団にいらしたのですか?



吉田さん)

ダニエルさんは第二次世界大戦開戦後、ハワイで医療支援活動を行っていましたがその後アメリカ軍に志願し、442部隊に配属されてヨーロッパ戦線で戦います。イタリアでのドイツ軍との戦いにおいて右手を負傷し切断することになってしまいます。

帰国後、目指していた医学の道をあきらめ政治の世界を目指し、1954年にハワイ州議員、その後連邦下院議員に立候補し、アメリカ初の日系人議員となります。

戦争が終わっても日系人への差別が残る中でダニエル・イノウエさんは日系人の地位と権利を守るために尽力しました。代表的な例は、当時、投資したくても資金調達ができなかった日系人が資金を借り入れられるように銀行を設立しました。その設立メンバーの一人にダニエルさんがいらっしゃいました。


覚田 )

それが、CPB「セントラル・パシフィック・バンク」ですね


<解説:ダニエル・イノウエ>

ダニエル・ケン・“ダン”・イノウエ(Daniel Ken "Dan" Inouye、日本名:井上 建〈いのうえ けん〉アメリカ合衆国ハワイ準州ホノルルで生まれる。

父は福岡県八女郡横山村、母は広島県出身。ハワイ生まれの日系二世。父・井上兵太郎は1899年9月28日に両親浅吉・モヨとともにアメリカ合衆国ハワイ準州に移住。88歳没。死去の前、「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ、できたと思う」と述べ、最後の言葉は「アロハ(さようなら)」だった。2017年4月27日に、ホノルル国際空港の正式名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港 (Daniel K. Inouye International Airport, HNL)」となった


吉田さん)

その後、ダニエル・イノウエさんは上院議員となって、最終的にはオバマ大統領の時に副大統領に次ぐ、大統領継承順位第3位の上院仮議長になりました。アメリカの歴史上、アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位となっています。


覚田 )

それはすごいことですね。もし、その当時に、大統領と副大統領がなんらかの事故で亡くなっていたら、彼がアメリカ合衆国の大統領になっていた。ということですね。そのようなことは日本でニュースになっていないですよ。


吉田さん)

日本では、アメリカにおける日系人の功績を日本のメディアは全くと言い程取り上げてきていません。ダニエルさんは日系人のだけでなくハワイ全体の一番のヒーローだと思います。ダニエル・イノウエ空港と名前が変わってもダニエル・イノウエさんが誰なのか、どんな功績を残したのかということを日本から来る人たちはほとんど知りませんから、僕はハワイに住む人間としてハワイにおける日系人の功績を伝えていかなければならないと思っています。


覚田 )

すごい、すごいです。(驚)

こういう話は吉田さんがハワイ報知にいらしてから、ハワイの歴史を学んで、だんだんこういったことを知っていき、語り部として伝えていかれるということですね。



ハワイ報知の創業者、牧野金三郎さんの功績。日系人としてハワイで切り開いてきた想いや活動とは?

覚田 )

「ハワイ報知」新聞社の話をお聞きしてもいいですか?
ハワイ報知はどのような新聞なのでしょうか?



吉田さん)

ハワイ報知社は1912年の12月に設立された日本語新聞です。今年で108年目を迎えます。牧野金三郎さんという日本から移住をしてきた人が作った新聞会社なのですが、牧野さんはハワイ島にいた後、オアフ島で薬屋と法律事務所を経営していました。その時にサトウキビ畑で働いていた日本人労働者がストライキをおこします。その時の労働組合の委員長だったのが牧野金三郎さんです。


覚田 )

その当時、そんな労働組合を作れるような状況ではなかったと思いますが。


吉田さん)

日本人の労働条件が他の国の労働者とよりも低かったのです。例えば、ポルトガル人やプエルトルコ人が月22ドル50セントで一軒家を支給されていたのですが、日本人は月18ドルで長屋に住まわされていました。当時の18ドルでは楽な生活水準ではなかったことに加え、半奴隷的な待遇を受けていた中で不平不満が爆発し待遇改善を求める労働争議が起きました。その争議をとりまとめた組織を増給期成会と言うのですが、その委員長を務めたのが牧野金三郎さんです。


覚田 )

そういう時代なのですね。そんな時に新聞を作るというのはスゴイことですね。


吉田さん)

当時、日本語新聞が3紙あったのですが、労働争議に際して3紙とも全て農場主サイドについた論調を展開していました。それを見ていた牧野さんは、労働者側の立場に立った新聞を作る必要があると考え、ハワイ報知を設立させたのです。

その後、牧野金三郎さんはハワイ報知社として様々は事件の解決に尽力するのですが、代表的なものが「数珠つなぎ結婚式」いわゆる「ピクチャーブライド」と言われているものです。日本から呼び寄せた花嫁を移民局内で一列に並べて、これを迎える花婿と一緒に、キリスト教式の集団結婚をさせられるという制度がありました。

ハワイ報知は、移民局は上陸を許可するかどうかを決める場所で、結婚式を挙げなければ上陸できないのは不法と主張し、ワシントンの内務省に呼びかけをして廃止させました。

また、1920年頃から日本人の移民がどんどん増えていくなか、アメリカとして、日本人も米国の文化に従うべきと唱え、ハワイの日本語学校を閉鎖させようとする動きが強まります。その時も牧野金三郎さんは日本語学校を守ろうとし、学校を廃止するのは違法だと主張して連邦最高裁まで争って、日本語学校の存続を勝ち取りました。


覚田 )

当時は日本語学校というものがあったのですね


吉田さん)

日本人から移住して来た一世は日本語で会話し、英語を話すことがあまりできませんでした。しかし、その両親を持つ日系二世は、ハワイで生まれ育って、学校も英語での授業ですし、友達とも英語の会話がほとんどで、英語がメインとなっていました。日本語を使うときは親子の会話と日本語学校での授業だけでした。牧野さんはもし、日本語学校がなくなってしまうと親子間のコミュニケーションが取れなくなる可能性があること、日本人の文化を守るために絶対日本語学校は潰してはいけないと主張し、潰すことは違法だと唱えて最高裁まで争って勝訴し、日本語学校の存続を勝ち取るのです。

牧野さんはこのように日本人の地位や権利を確保するために尽力し、素晴らしい功績を残されています。


覚田 )

本当に素晴らしいですね。そのころ、ハワイの日本人の人口はどのくらいだったのでしょうか?


吉田さん)

1868年、今から151年前に約150人の人が上陸したのがハワイと日本の移民の歴史のスタートです。

その後、1881年にカラカウア大王が日本を訪問し明治天皇と面会し、ハワイへ移民を送ってほしいという申し入れを行い、1885年に官約移民という日本政府とハワイ王朝の政府間において移民を派遣するという契約を結びました、その後、1908年頃には日本からの移民者数は約65,000人になり。太平洋戦争の頃には15万7000人になっていました。

カラカウア大王が日本に訪問した際に日本とハワイの同盟の証として、政略結婚の申し出がありました。最終的には日本は断っているのですが、もし日本が受け入れていれば、ハワイはハワイ王朝のままだったかもしれないし、アメリカでなかったかもしれないですし、ハワイ真珠湾攻撃もおこっていなかったかもしれません。


覚田 )

そして、もしかすると日本だったかもしれないということですね。そういったことをハワイ報知に入ってから勉強を始められたのですか?


吉田さん)

ハワイ報知は100年以上の歴史があり、日系移民の歴史と共に歩んできた会社ですので、会社の歴史だけでなく、日系移民の歴史を後世に伝えたいと思って調べました。


覚田 )

素晴らしいです。今の話を聞いていると牧野金三郎さんは新聞社の社長というよりも、日系人を救うために立ち上がった男の武勇伝のような話です。その後を継いだら、このような歴史を次の世代に伝えていくことは大切だと思います。


吉田さん )

ハワイ住んでいる日本人としてハワイの日系人の歴史を、日本の方にも知ってもらいたいなと思います。ハワイには日本から年間約160万人の観光客が来ていますが、安心して観光で来られるのも、我々が住んで仕事ができるのも、元をたどれば人種差別を受けながら耐えてきた日系人の方々のお陰だということ伝えていきたいです。日本から来る皆さんが日系人の功績を頭の片隅に置いて感謝しながらハワイに来てくれるようになってほしいなと思っています。


覚田 )

そういった想いを伝えていくインフルエンサー的なことをしているのですね。


吉田さん)

昨年、日系移民150周年の記念行事が開催されたときに秋篠宮殿下、妃殿下がいらっしゃられて、「日系一世、二世の方々が困難を克服しながら、ハワイの発展に大きな貢献を果たしてきたことを末永く心に刻みたい」とおっしゃられたのですが、日系人のこれまであった事実を知らない日本人の方が多いので、ハワイに住む日本人として、日系人の歴史を伝えていくのは一つの使命なのではないかと思っています。


覚田 )

すばらしいですね。僕が吉田さんに初めてお会いしたときに感動して、聞き終わったときにこのお話をいろんな人に伝えたいという思いが残りました。

いつかインタビューをして、それをみんなに伝えたいと思っていました。本日、それが実現できて本当に嬉しいです。

吉田さん)

僕はハワイの日系人の歴史を日本人に伝えることと、ハワイと日本の架け橋になることをやりたいと思っています。

歴史を伝えることは、修学旅行や社員旅行などでハワイに来ている人たちに講演をしています。

また、ハワイと日本人の架け橋になるために、3年前に「111-HAWAII AWARD(ワン・ワン・ワン ハワイアワード)」というプロジェクトをスタートさせました。日本人が大好きなハワイを日本人の手で盛り上げるプロジェクトが出来ないだろうか考え、日本人の投票による日本人のためのハワイランキングを作ろうと始めました。

111-Hawaii Awardは、

・ハワイの企業の品質向上を促して地域産業の発展をさせる。

・日本人旅行者の満足度を高めてハワイの観光を促進させる。

・日本とハワイのメディアが協力してハワイの記事を掲載することによって、ハワイを活性化させる

ということを目的としています。

日本人が様々なカテゴリーに自分の好きなお店や場所を投票していくような形を作ることによって、お店は1位を目指して盛り上げていく、投票した人には抽選でハワイ往復航空券やホテルの宿泊券が当たるようすることに加え、投票数に応じてハワイの環境や文化を守る NPO 団体に寄付を行うという、ハワイ地元企業、旅行者(消費者)、地域社会がハッピーになる仕組みを作りました。

111-HAWAII AWARD(ワン・ワン・ワン ハワイアワード)



ハワイ報知の新聞をより多くの方に届けるために見直した仕組みやサービス


覚田 )

さて、吉田さんが社長になってから改善したことや、新聞への思いを聞きたいのですが、ハワイ報知はハワイで唯一の日本語日刊新聞ですよね。現在、どのくらいの発行部数があるのですか?


吉田さん)

発行部数は約3,000部です。ハワイに住んでいる日本人は在留届出ベースで約2万人います。一世帯人数を4人と仮定しますと5,000世帯になりますので、在住日本人の約60%の方に読んでいただいている新聞です。ホテルや飛行機にも搭載されていますので、観光客の方にも読まれています

また、去年の9月から電子版の発行も始めました。世界中のどこにでもいながらハワイ報知が読めるようになり、購読部数は増加しています。



ハワイ報知はハワイのニュースを日本語で伝える新聞です。昔は日本のニュースを日本語で伝える新聞だったのですが、インターネットの普及と共に日本のニュースは無料で読めるようになったので、どんどん部数が減っていきました。僕が社長に就任した後、ハワイ最大の新聞であるホノルル・スター・アドバタイザーと提携をして、彼らの記事と写真を使用できる契約を結び、記事を日本語に翻訳して掲載するようにしました。


覚田 )

はい。私も読んでいますが、ハワイのニュースが次の日には写真と記事が日本語で読めて最高です。新聞が自宅に毎日届くのもいいですね。


吉田さん)

私が来た当初は郵便で送っていたのですが、そうすると地域によって新聞が夕方に届くところもありますし、2日分とか3日分がまとめて届いたりすることもあったのですが、ホノルル・スター・アドバタイザーに配達を委託して彼らの朝刊と一緒に配達してもらう仕組みを作りました。そのおかげで、毎日必ず朝に届くようになりました。


覚田 )

はい。毎朝届いています。映画の世界で見てきた、新聞が庭に投げ入れられている。あんな感じです。(笑)


吉田さん)

また、ハワイ報知は2週間に一度こども新聞を発行しています。始めた意図はハワイにはニューヨークやグアムのように全日制の日本人学校がなく、レインボー学園という週1回の補習校がありますが、子供たちは毎日現地校に通っています。



当然学校での会話は英語ですし、レインボー学園に行っていなければ、日本語に触れる機会はお家の両親との会話に限られてしまいます。そこでハワイ報知は小学生から中学生を対象とした子供新聞を発行して、日本語を読むという機会を提供しています。記事の内容は日本で起こっていることや、子供たちの好きな科学のこと、本の紹介、くまモンの4コマ漫画も載せたりしています。


覚田)

本当ですね。見やすい。文字も大きくて、ふりがなもうってある。これいいですね。そして、くまモンのマンガ(笑)

また、ほかの新聞も印刷されていると聞きましたが。


吉田さん)

はい。ハワイ報知には新聞を印刷する輪転機がありますので、ハワイの様々な新聞印刷のお手伝いをしています。日本経済新聞をはじめ、フィリピン語や中国語、韓国語の新聞、カトリック教の新聞など、約35種類の新聞を受託印刷しています。また、チラシ、パンフレット、フリーペーパーなどの商業印刷も行っています。


覚田)

今日は本当に素晴らしいお話をありがとうござました。

引続き、ハワイと日本の架け橋となられるよう頑張ってくださいませ。

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